私に吹く風

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しばらく休みます。

  分け入っても 分け入っても 青い山     種田山頭火
 次から次へと困難が起こるのが人生。素直に言えば、困難や苦難に直面すれば尻ごみし、それらに遭わないような道を選びたいと思ってしまう。しかし、困難や苦難を避けると、いつまでたっても自分というものがわからない。曖昧さと同居している自分が的確な判断をくだせるわけがなく、むしろそれらをひき寄せてつぶされない胆気を鍛えてこそ、生きることに価値を見出せるというものであろう。
 しばらく、ブログを休まさせて頂きます。訪問してくださった方には本当に申し訳ありません。

 レモンランタナ

 ミセバヤ

 ムギワラギク




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柿の句に思う

  里古りて柿の木持たぬ家もなし 芭蕉
 晩秋。二十四節気で寒露から立冬の前日までをいう。秋風が冷たくなり、赤や黄で染まり始めた山沿いの畑や庭で柿が鈴なりとなって枝がたわんでいる光景を見かけるようになった。葉の落ちた枝一杯になる柿の橙赤色が枯れゆく山里の風景を彩り、心にしみる晩秋の哀感を抱かせる。私のような田舎で生まれ育った者にとっては、いわば心の原風景である。
 柿は古くから秋の果物の代表として最も親しまれて来た。柿の実は皿の上では控え目だけれど、深みのある甘さのその味はどこか懐かしく郷愁感を抱かせる。子どもの頃、母の実家で、祖父が竹の先の割れ目に熟した柿の枝を挟み込んでそれを捻らせて枝を折り、よく柿を取ってくれたものである。あのほのぼのとした風景が今も私の脳裏に焼きついている。
  日あたりや熟柿の如き心地あり 夏目漱石
 熟した柿は、焦るでもなく慌てるでもなく、いずれそうなることを予知していたかのように枝を離れて落下する。つまり、自然の摂理に身を任せているのである。原因は何であれ、人はいつか死ぬ。人の死も生も、柿同様に自然の流れの中にあるということだ。当時は人生50年と言われた時代であるとは言え、漱石は、29歳の若さでそのような成熟した心地に達したというのだら、誠に驚くべきことである。
 漱石の接した柿は恐らくは渋柿であったはずである。渋柿は遺伝子の中に本来持つ渋さが抜けて完熟したとき、極めて美味となる。人間も同様で、因縁として親から貰った欠点を克服して充実したとき、本当の味が出るというものである。漱石もそれを征服し、打ち克ったればこそ、現代に名を残したのであろう。当時の漱石の年齢を遥かに超えた私は、人生惑ってばかりだ。未だ渋柿である。果たして句の如き心境に達することはあるのか。なんともどかしいことである。


庭ではパンダスミレがまだ咲いてくれている。なんとも健気で可愛らしい。




 

秋の風物詩 ススキ

 私の部屋の窓向こうに、そして通勤途中の車窓からも、否が応でも眼に入って来る。秋という季節を最も身近に感じさせるのがススキ(薄、芒)だ。ススキは昔から日本人の暮らしに無くてはならない重要な植物であった。あの分厚い草葺きには稲わらがかなり使われるが、わらだけでは強度が足りず、また腐食しやすいことからススキが大量に用いられた。萱とは、ススキの他にチガヤとかカルカヤなどを含めた総称である。何を隠そう、私が生まれたとき、萱葺の家であった。我が家は、昔、西日本では庄屋、東日本では名主、そして東北地方では肝煎(きもいり)と呼称された地元の有力者であったらしく、築百年を超えた風格ある茅葺の家だったというから驚く。むろん、私が3歳の頃に取り壊したそうであるから、どんな家だったのかは記憶の底にも浮かんで来ない。それでもススキには感慨深いものがある。
 ススキは、夏から秋にかけて茎の先端に淡黄色から赤褐色の花穂(かすい)をつけ、長い花軸に花序よく群がる。これを特に「尾花」と呼び、万葉集で山上憶良は、
 「秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花 萩の花尾花葛花なでしこの花女郎花また藤袴朝がほの花」
と秋の七草の一つに挙げた。そのススキも、秋が深まるにつれ、花穂が白っぽくなり、少しの風にもなびくようになる。情趣漂う風情ある秋の野を想うとき、ススキの花穂が一斉になびく野が浮かぶ。その風景は儚げで、どこかもの寂しさを感じる。その一方で、花穂に陽光が射して逆光にススキ野原を見渡したとき、銀色の輝きに満ちた海原のようであり、それが実に美しい。ススキが秋の風情を感じるものとして尊重されているのも頷ける。
 ところで、古来より理知的な才女といわれる清少納言はススキをどう観ていたのだろう。『枕草子』で「秋の野の情趣漂う風情というものは、ススキ(薄)あってのものだ」と褒め称えてはいる。しかし、その直後に
 「ただし、秋の終わりには、全くもって見どころのないものになる。様々な色どりで思い思いに咲き乱れていた秋草の花が、跡形もなく散ってしまっているのに、冬の終わりまで頭がもう真っ白に覆われてしまったのも知らずに、昔の盛りの時を思い出して風に吹かれてゆらゆら立っている様は、人間の一生にとても良く似ている。そうしたススキ(薄)に重ね合わせる心があって、その事を特に、哀れと思うのであろう。」(私訳)
と述べた。ススキを白髪の老人に喩え、何を言わんとしているかは容易に理解できるであろう。清少納言の感性はやはり素直だからして鋭い。その眼差しにも、これまた頷ける。
 しかし、私たちにどのように見られようが、ススキは決して打ちひしがれることはない。冬の訪れが告げられたからといって、ススキにはそんな感傷に浸っている暇はないのである。枯れススキとなっても、厳しい寒さのなかで根元に新しい芽を準備している。次の春に向けてもう成長し始めているからである。それにライバルの外来種セイタカアワダチソウに負けてはいられないのだ。





 

身に入む  -宿根アスター・孔雀アスターー

 宮城は、そぞろ寒、肌寒とかいったものではなく、手足が冷たくなって身に入むほどの寒さとなって来た。いよいよ闘いが始まる、
   野ざらしを心に風のしむ身かな  芭蕉
 「身に入む」、あるいは「身に沁む」という言葉には、そぞろ寒、やや寒、肌寒などといった時候そのものを指す言葉とはやや異なって、冷気が身の内にまで沁み通り、万物枯れ果てる冬がもうすぐそこに迫っているといった心細い感じまで伝わって来る。
 早々とこの言葉を取り上げるのは、頸椎の難病を患う私にとって、寒さの増長がもたらす病の症状との闘いの始まりであるからである。大袈裟だと思うだろうが、図らずも、野ざらしになる覚悟で旅に出る芭蕉の心境を詠ったこの句に重ねてしまい、闘いの季節を迎える緊張感を増幅するひんやりとした秋風に思わず武者ぶるいがするのである。どれほどの激痛が出現し、手足がどれほど思うように動かなくなるのか、手指の細かい作業がどれほど困難となるのか、さらにはそれらの症状から生じる無気力感を如何に抑えてゆくか、苦痛と困難、不安と葛藤、そして忍耐とまさに野ざらしに立つ心境だ。
 この心境は、神経や関節、あるいは腰を重く患う者にとって皆同じ思いであると思う。私などは、過去に14段ある家の階段から転げ落ちて尾骨を折ったり、凍った道で滑り転んで捻挫したり、さらには手指が硬直して箸を上手く使えなくなったり、遂には門扉に車を衝突させたりと無様で滑稽な思わぬ出来事が起こったりした。しかし、どんな窮地に陥ったとしても、そこから沸き出る精気のない思想を突き放し、何とかしなければと自ら切り開いていくしかない。それが病とともに生きる者の宿命であるし、“活きる”ということである。

 <秋の庭に咲く花>
 宿根アスター


 孔雀アスター






吾輩は猫である  -リンゴベリー他ー

 吾輩は猫である。名前はユキという。どこで生れたかは見当がつかないが、何でも段ボールに閉じ込められて、この家の門前に棄てられていたらしい。薄っすらと記憶していることは、救いの神たるここの主人の奥さんに可愛いいと拾い上げられたことだけである。だから、吾輩はここで始めて人間という生き物と向き合ったようなものだ。あれから三年が経つ。どうやらここの主人が吾輩を少々厄介者に思っているらしいことを除いては何の不満もなく平穏に過ごしていた。
 ところが、吾輩は先月から、何でも病院とかいう狭い所に閉じ込められていた。どうしてと問われると返答に困るが、これまで足を踏み込んだ事のない道路向う側の世界に行きたかっただけである。ところが、運悪く、大きな怪物のような鉄の塊と接触してしまったのだ。奥さんからあれほど厳重注意されていたのに愚かだといわれればそれまでだが、ともかく、吾輩は足の骨を折ってしまったのだ。すぐに手術とかいうものを施したお蔭で経過も良いらしく、昨日やっと我が家に帰れたということだ。
 ところで、ここの主人を見ていると、人間というものは誠に不可思議な生き物である。毎日、心労伴う仕事に忙しがり、取るにも足らぬ些事に心奪われ、人生を短くすることに夢中になっている。吾輩が迷妄だと思うほどに今日を正視することなく今日をやり過ごし、いたずらに明日を期待して、あれこれ工夫をこらしながら毎日必死になって時間の空虚を埋めようとしているのだ。刻々と近づく老死の足音が聞こえぬわけではあるまいが、一体いつになったら、こころの安息を得て落ち着くというのか。
 一方の吾輩は毎日が退屈で仕方がない。主人はブログを再開したらしいが、どうせ詰まらない記事を書いている余裕があるなら、少しは吾輩を構って欲しいものだが、殆ど期待できそうにもない。毎日時間がだらだらと怠情に流れて退屈過ぎるというのも苦痛である。だが、人間は違う。今過ごしつつある時間が長く退屈を感じることを一途に嫌い、快楽や楽しみごと、不安や緊張、困難などで時間が素早く過ぎていくことを求めて、それを避けようとするのだ。人間はできるだけ時間を短く過ごすことが生き甲斐の充足であるようだ。これまで吾輩の目にはそれが滑稽なものに映っていたのだが、このところつくづく思うのだ。吾輩のように刺激もなく単調平板に流れる時間を過ごすよりは、短くとも充足した時間を数多く持った歳月を過ごす人間の方が、かえって晩年に後悔が少なく、長いと感じるのではないかと。
 まっ、何であれ、ここの主人のように訳がわからないことを語ることは吾輩には似合わない。ここでやめておく。吾輩の戯れ言だと思ってくれればそれでいい。吾輩が歩けるようになるまでには三週間もかかるそうだが、窮屈で退屈な時間がまた始まるのかと思うと憂鬱である。

<今咲いているラン科の鉢花>
リンゴベリー(ラン科 コチョウラン属)

オンシジューム(ラン科 オンシジューム属)


 

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まとめ
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