- 私に吹く風

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うつろふ  -秋の庭花ー

 どうやら、春から夏にかけて草花や木々が旺盛な生成の過程をたどった我が家の庭も、秋を迎えて冬をめざす枯れの過程に差し掛かってきたようだ。自ずと「うつろふ」という言葉が浮かんでくる。『古今和歌集』の「秋部」に「うつろふ」という言葉がしばしば登場する。この「うつろふ」は「移ろふ」であって、移り変ること、時が過ぎ去ること、色変りしてあせること、花や葉が散り去ること、人の心が変ること、といった意味である。いずれも時の経過に伴う物心両面の変移を表すが、庭を眺めていると、とりわけ物事の盛衰において、「衰」のほうに向かう気配をこもらせているように思えてくる。それは取りも直さず無常の心である。東北の秋は短い。あと1ヶ月も経てば、咲き誇る花は殆どなくなり、草花の枯れ果てた庭になるであろう。そう思うと免れない寂しさが湧いてくる。
  ちはやぶる神なび山のもみぢ葉に思ひはかけじうつろふものを (『古今和歌集』第五 読人不知)

 我が家の庭で今咲いている花の中から・・。それにしても、もう少し写真を上手に撮れたらとつづく思う。
 ダリア 豊年
 ダリア 山荘の秋
 ダリア 乙女の星
 エンジェルトランペット
 ヒメイワギボウシ
 ネコノヒゲ




掃き溜めに鶴  -ハキダメギクー

 キク科のハキダメギクは道端や畑によく見られるが、我が家の庭の片隅にも咲いていた。白色の舌状花が5個並び、内側に黄色の筒状花を多数つける。頭花は直径約5mmほどで余り目立たないが、よく見ると星の形をした可憐な白い花を咲かせる。
 雑草とは言え、ハキダメギクの名が「掃き溜め菊」の意味であるとは、なんとも可哀想な名である。人間がこんな気の毒な名をつけられたら、間違いなくいじめにあっているはずだ。名前は自ら進んでつけたわけではないから、本人にまったく罪はない。問われるのは命名者のセンスである。しかし、調べてみると伏せておきたいと思うほどに著名な植物学者であったから驚く。東京世田谷の掃き溜めの場所で発見したことからこの名をつけたそうであるが、だからと言って、この花のどこが「掃き溜め」なのか、植物学者であるなら、雑草であっても情を込めた名をつけて欲しかったとつくづく思う。
 ハキダメギクは南アメリカの原産で、大航海時代を経て世界中に広まったそうである。そのため、世界各地でさまざまな名前がつけられている。例えば、ハワイでは原産地にちなんで「ペルーの雑草」と呼ばれ、イギリスでは「キュー植物園の雑草」と王立植物園の名を冠している。また、繁殖力が旺盛で、小さい花でありながらも次々に花を咲かせて種子を作り、新天地にどんどん進出していくという特徴から、英名にはそれを称えた「勇ましい戦士」という別名もある。ハキダメギクの自尊心を満足させる誇らしい命名である。それに引き換え、日本で「掃溜菊」と名づけられた当のハキダメギクはどう思っているのだろう。
 しかし、日本には「掃き溜めに鶴」のたとえもある。いつまでもくよくよしているより、その名前で頑張るしかない。たとえその身が掃き溜めにあっても、その可憐な花の姿に「愛らしさ」を、そして雑草としてどんな逆境にも立ち向かう逞しい生きざまに「強さ」を感じてくれる人たちがいるはずだ。難病を患い、時には挫けそうになる私もその一人である。



 

『銀河鉄道の夜』のリンドウ  -リンドウ(竜胆)-

 我が家のリンドウが咲き始めた。いよいよ秋も深まって来たかと思わせられ、どこかもの寂しい感じがしてならない。
 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の「六・銀河ステーション」の末尾にリンドウが登場する。ジョバンニとカムパネルラが天上の銀河鉄道を走る列車の車窓から外の景色を眺めているとき、最初に眼に飛び込んでくるのがリンドウである。


 ごとごとごとごとと,その小さなきれいな汽車は,そらのすゝきの風にひるがへる中を,天の川の水や,三角標の青白い微光の中を,どこまでもどこまでもと,走って行くのでした。
 「あゝ,りんだうの花が咲いてゐる。もうすっかり秋だね。」カムパネルラが、窓の外を指さして云ひました。
 線路のへりになったみじかい芝草の中に,月長石ででも刻まれたやうな,すばらしい紫のりんだうの花が咲いてゐました。
 「ぼく,飛び下りて,あいつをとって,また飛び乗ってみせようか。」ジョバンニは胸を躍(をど)らせて云ひました。
 「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」
 カムパネルラが,さう云ってしまふかしまはないうち,次のりんだうの花が,いっぱいに光って過ぎて行きました。
 と思ったら,もう次から次から,たくさんのきいろな底をもったりんだうの花のコップが,湧(わ)くやうに,雨のやうに,眼の前を通り,三角標の列は,けむるやうに燃えるやうに,いよいよ光って立ったのです。


 この場面をプラネタリウム版などの映像で観ると、なんて美しい風景描写なのだろうと思う。ところが、本文で直ぐあとの「七・十字とプリオシン海岸」の冒頭は

 おっかさんは,ぼくをゆるして下さるだらうか。ぼくはわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。

と表白することから始まる。その場面からは、命を犠牲にして人を助けるというカムパネルラの自分の信念と同時に、親孝行も満足に出来ずに死んでしまったという自責の念ともとれる悲しい思いが伝わって来る。この美しいリンドウの花の風景からすぐ後に唐突過ぎるような悲しい内面描写への移行は、リンドウの特徴にもあると思えてならない。美しくも、群生することなく、花の少ない晩秋に咲き、さらに寄り掛かるススキ原のイメージとも重なって、どこか寂しさやもの悲しさを感じさせるのがリンドウであるからだ。私に都合のよい解釈かも知れないが、リンドウの花に託した賢治の思いをそのように解してリンドウを眺めていると、このうえなく愛する気が自然と湧き出てくるのである。




 

タデ科の可憐な花  ーミゾソバとサクラタデー

 「蓼食う虫も好き好き」は、他人から見れば「えっ」と思わせるような趣味や交際相手などを持つ人もいるという意味で用いられることわざである。辛くて口がただれるの意味で蓼(タデ)の名がついたとされるほどにタデの葉には辛味があるらしい。よりによってそれを好んで食べる虫がいるように人の好みは十人十色ということだ。しかし、タデと言っても、辛いのはヤナギに似た葉を持つヤナギタデだけのようで、残りは辛味の無いタデである。
 殆どが雑草扱いのタデ科の植物には、なぜか気を引く名前のものが多い。ヒメツルソバ、サクラタデといった可愛らしい名はまだ良いとしても、アキノウナギツカミ、ママコノシリヌグイ、ウシノヒタイ(ミゾソバ)、アカマンマ(イヌタデ)、ギシギシなど、滑稽な名前や怖い名前などがある。なぜそのような名がついたかは他に譲るとして、昔の人は、憎くてこんなひどい名前をつけたのではないだろう。雑草とは言え、ともに生きる仲間として、またどこか愛嬌のある姿に愛情といったものを抱いていたからこそ、親しみを感じるような名前をつけたと思いたい。
 タデ科の植物のなかでも愛おしさを覚えるほどに美しく可憐な花を咲かせるミゾソバ(溝蕎麦)とサクラタデ(桜蓼)が、前回掲げたゲンノショウコの傍で咲いていた。ミゾソバは宮城では9月末頃から10月にかけて咲き、中心部は色が薄く、花弁の先端は淡い紅色である。群れ咲く秋、近寄ってみると金平糖に似ていてなんとも可愛らしい。サクラタデはミゾソバより先んじて咲き、花序が細長く、サクラ、あるいはウメの花のように美しく、淡紅色の花をやや密につける。どちらの花もとても小さく、淡紅色の楚々としたそれなりの風情があって、私の好きな草花である。

   ミゾソバ



   サクラタデ





山頭火の命日  -ゲンノショウコー

 昨日の10月11日は漂白の俳人、種田山頭火の命日であった。私の青春の思い出の中に、乞食のように各地を放浪した山頭火がある。彼を知ったのは、高度成長期に入って物足りていく中で、かえって心の飢えを感じ始めた頃である。管理されつくされた社会の規制の中で生きることに窮屈さを感じ、どこか満足し得ないものがあった。感覚で射止めた山頭火の句には、従来の俳句にない新鮮な感銘があり、当時の若者たちの魂を揺り動かしたのは確かである。私も周囲にいる若者も幻想を夢見て、何もかも捨て、時には命までも捨てようとした山頭火の生き方に自由への憧れ、純粋な魂への憧憬を抱いたものである。
 私はそのことを懐かしく思うだけではない。山頭火の在り様は、現代人の実生活とは遠くかけ離れているように思えるが、考えてみれば、今の私も心の中ではそんな旅をしているように思えてならない。一体何のために生まれ、そして何をしようとしているのか、人生の生きる意味を見出すべく、真摯に山頭火の生き方を学ぼうとしている。
 話は変わるが、我が家の塀の陰でゲンノショウコの花がひそやかに咲いている。私が綺麗だと思う野の花の一つだ。ゲンノショウコはフウロソウ科の多年草。紅紫花は西日本に、白紫花は東日本に多く見られる。薬草で昔から「医者いらず」とも言われ、下痢止めの妙薬として重宝された。煎じて飲めば実際に効果てきめんらしく、そんなことから「現の証拠」という名がつけられたそうである。
 山頭火も漂泊の旅でゲンノショウコを観ている。『草と虫とそして』の中で次のように記していた。
 「げんのしょうこという草は腹薬として重宝がられるが、何というつつましい草であろう。梅の花を小さくしたような赤い花は愛らしさそのものである。或る俳友が訪ねて来て、その草を見つけて、子供のために摘み採ったが、その姿はほほえましいものであった。
   げんのしようこのおのれひそかな花と咲く  」
 世を捨てた山頭火であればこそ、草花を愛らしく思う気持ちは強い。ゲンノショウコの可愛らしく凛とした姿と自らを比べ、自嘲的な笑みをこぼす姿が浮かんでくる。彼は亡くなる一ヶ月前にはこんな句を作っていた。
  もりもりもりあがる雲へ歩む
 足元にゲンノショウコを眺めて空を見上げると、今、どのあたりを歩いているのだろう、と心なしか淋しさを感じる。山頭火は、本当は何を捨て、何を得て、何を残したのだろう。




 

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まとめ
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